今朝、布団の中で考えたのだが、日本におけるシンセ弾きの数は、1000人に1人、おおむね10万人くらいではなかろうか。私が通っていた高校は1学年が900人くらいだった。シンセ弾きは学年に1人か2人、くらいであった。昔も今も、あまり変わらないだろう。
他の奏者と比較するとどうだろうか。
ピアノを習ったことがあり、鍵盤を両手で弾く人は、10人に1人、1000万人くらいだろう。鍵盤ハーモニカを弾いたことがあり、鍵盤を片手で弾ける人は、ほぼ全員、1億人くらいだろう。私の父のような、音楽教育は歌うだけだったころの人は、ここでは除外して考える。
ピアノを、今習っている人はどのくらいいるだろう。小学生が1学年100万人とすると、6年で600万人。その10分の1がピアノを習っているとして60万人。ピアノの先生が、1人で20人の生徒を持っているとすると、ピアノの先生は3万人。
バンドで鍵盤を弾いている、という人は、シンセ奏者の10万人よりは多いだろう。30万人くらいかなぁ。
推計でいうと、まあまあ、上のようなもんではなかろうか、と思う。
このように考えると、シンセ弾きを相手にしていたのでは、商売は成り立たない。シンセを多く売ろうと思ったら、シンセ弾きではない人に売れないといけないのだ。
過去のヒット作はなぜ売れたのだろう。
ヤマハDX7(を始めとするDXシリーズ)は、鍵盤楽器は欲しいがピアノは置けない、という人にヒットした。DX7が出た1983年、市場にある電子鍵盤楽器はアナログ音源で、ピアノとはほど遠い音しか出なかった。電子ピアノという製品ジャンルは、ほぼ存在しなかった。DX7はピアノの音は出なかったが、電気ピアノの音はなかなかいけていた。他の音も出た。ピアノや電子オルガンのようなでかいものはちょっと、という人に、DX7は広く受け入れられた。
私は1986年ごろに吹奏楽団の学生指揮をしていたのだが、私以外に女性の指揮者も一人選出されて、その女性は、「スコア読むのにキーボードほしいから買い物に付き合って」と言い、一緒に御茶ノ水に行って、DX21か何かと、小型のヤマハのアンプとアナログディレイ(確かアムデック)を買って帰ったことがある。ピアノの経験はあるが、学生寮にピアノを持ち込むことはできないから、DXでということだった。
あと、DX7は、日本全国の軽音楽練習スタジオが、こぞって購入していた。どこのスタジオでもDX7をレンタルできたから、カートリッジとペダル類とテープエコーとブレスコントローラーを自転車に縛り付けて運べばよかった。車がない人間にとっては、ありがたい時代だった。練習スタジオの分だけで、数万台は売れたのではないだろうか。
コルグM1は、アコースティックピアノの音が出る点が画期的であった。「M1ピアノ」と後に呼ばれるキンキンしたピアノは、家でしっとり弾くには向かないが、ステージで響かせるには好適だった。ステージやスタジオで前世代のエレクトリックグランドやコンボピアノが壊れつつある状況を、うまくカバーしたのがM1であったと思う。前世代のエレクトリックグランドやコンボピアノに比べると、安くて軽かった。Aスタジオに運ぶ、みたいなことが簡単で、据え付けにする必要がなくなった。
1990年代の日本における大ヒット作、ローランドSound Canvasと、そのライバルであるヤマハMUシリーズ(総称「DTM音源」)が画期的だったのは、パソコンで音楽をダウンロードして聞きたい、打ち込みをしてアップロードして聞かせたい、というニーズをつかんだことだ。鍵盤ハーモニカ奏者まで取り込んだと言える。売れて当然である。まあ、日本だけの現象だったかもしれないけれど。
これ以降どうなったかというと、ADSL/光回線の普及によりPCM化された音楽のやり取りが可能になると、DTM音源は不要になった。携帯電話に着メロのための音源チップを入れることもなくなった。ローランドとヤマハは需要の消滅に直面することとなった。
「ピアノは置けないけど」という人がシンセを選ぶこともなくなった。電子ピアノ、電子キーボードを買えばよくなったからだ。安い方がいいよね、ということで、カシオ計算機が躍進することとなる(XW-P1とXW-G1は持ってるよん)。
以上のような具合で、シンセは商売になりにくくなった。ヤマハは、エレクトーンとシンセの新製品が出てくるまでの期間が、えらく長くなった。まあ、そうしないと商売が成り立たないのだろう。適切に商売をしているとも言える。
日本のシンセ弾きが10万人程度であるとすると、このページを訪れる人も、もう少し増えてほしいかも。ははは。
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(2021/10/24追記)初出時に計算ミスが多くありました。訂正し、お詫び申し上げます。